彼女に最後に会ったのは、確か1999年の夏だったと思う。
まだ小さい長男をベビーカーに乗せて河原町に出て、彼女と、もう1人の友達を待ってた。
人混みの横断歩道の中から、マウンテンバイクに乗ってすいっと姿を現した彼女を、
今もはっきり記憶してる。
くるくるとスパイラルパーマを当てた髪を、背中まで伸ばして、
7分丈の袖のシャツにサマーニットを羽織って、膝までのジーパン。
中性的な中にどこかしらフェミニンなニュアンスがあり、それがいかにもかつての彼女らしいスタイルだったので、久しぶりに会ったのになんだかホッとした。
本当に他愛ない時間を過ごした。
もう1人の友人と三人で新風館に行って、買い物して。
教務の仕事しながら、英会話を習ってるって言ってたなあ。
習ってる外人教師の人と、英語で真剣に議論するのが面白いって生き生きして話してた。
ランチを食べながら三人それぞれの暮らしぶりを報告しあって、それから別れた。
そういえばあの時もひどく後ろ髪を引かれた。
家庭に入って、大学の友人に会う機会もほとんどなかったから、ホントに嬉しい機会だったのは確かだけど、もしかしたら、これで彼女に会えるのが最後だと、見えない何かに
教えられてたのかもしれない。
それから私も忙しい日々を送ってた。翌年第二子を出産して、育児に追われて、あっという間に月日が経ってた。
そんなある日突然友人から電話があった。
最近彼女と連絡取ってる?と、探るような口ぶりで。
忙しくて全然…何かあったの?と訊ねると、友人は意を決して「実は彼女がね…」と重い口を開いてくれた。
既に彼女は大きな手術を終え、放射線や抗がん剤で癌を叩く治療をしていた。
そして一度は彼女の中から一掃された癌がまた、別の場所で見つかった。と。
友人から聞かされた話から、私は自分で彼女の病状をリサーチし愕然とした。
友人は、彼女が病気のことを極力知られたくないから、他の誰にも言わないであげてねと、私に口止めをした。友人が私に話したのは、一人で抱えきれなくなったからだと思う。
私もいたたまれなくなって、彼女に手紙を出し、それから私と連絡を取ってる数人の人たちに話してしまった。彼女に連絡を取らないで、とだけお願いして。
みんな一様にショックを受けていたに違いない。
でもだからといって、何が出来るわけでもないし、状況が変わるわけではなかった。
むしろその事が彼女の耳に入り、結果的に苦しめてしまった。
友人に二度と話さないでと怒られた。当然のことだと思う。
今でも後悔してる。何故彼女の尊厳を優先してあげられなかったんだろうって。
頭では理解していたけど、どうしても彼女を知る人たちに知ってほしかった。
彼女が非常に厳しい現実と向き合い、前向きに戦ってるってことを、ただ、誰かに知っててほしかった。
彼女は強がってるけど一方ですごくもろかったし、発症してからも一人暮らしを続けてたって聞いて、毎晩どんな想いを抱えて眠りについてるかと考えただけで、涙が止まらなかった。
でも、どんなにがんばっても病気と戦ってる彼女にはなりえないと痛感することになった。
彼女の病気のことを教えてくれた友人は、唯一彼女と会う事が許された女友達だった。
時々、電話でその友人から彼女の状況を教えてもらった。
友人にそんなつもりがないとしても、年を経るごとに弱っていく有様が語られた。
アホな私は数年たって、彼女が連絡を渋った理由がやっと分かった気がした。
当たり前に出来ていたことが、ひとつ、またひとつと出来なくなっていく自分を、
着実に死に向かっていく自分を、見せたくなかったんだと思う。
彼女らしい、強がりだけど。
でも、すごく分かる気がした。
それからは、静かに見守っていよう。と思った。彼女からのリアクションがあるまでは、
黙って何もせず。
気づくのが遅くなってゴメンね。
友人は何度か彼女に会った時、手紙のひとつも書いてみたら?って話してくれたらしいけど、
「うん、まあそのうち」って。
結局、彼女からの連絡は亡くなるその日までなかった。
後で聞いた話では、仕事にはとてもやりがいを持って取り組んで、
身体の続く限り、ギリギリまでがんばってたそうです。
知っていてどうして何も出来なかったのかと、今もそのことがとても悔やまれるけど、
本当に本当にこれでよかったのかな。
答えは出ません。
でも、精一杯闘っていた彼女の心の中が、少しだけ見えたような気がしました。
病気と、死と、人の尊厳について、彼女は私に深く考えさせてくれました。
ありがとう。おつかれさま。
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